「ドル買い殺人事件(血盟団事件)と三越百貨店(プラザ合意)」

*1932年(昭和7年)3月5日、昭和金融恐慌、金解禁とその再禁止の思惑のドル買いで暴利をむさぼった財閥への不振が高まり、井上準之助前蔵相や三井合名理事の団琢磨が暗殺された血盟団事件は有名である。
三井はドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになり、 三井財閥の総帥である団琢磨が東京・日本橋の三越本店寄り三井本館入り口で、血盟団の菱沼五郎に狙撃され、暗殺された(血盟団事件)
*その三越本店のライオン像前では1985年9月、秋分の日の祝日にもかかわらず、日銀よって国内大手銀行の為替担当者が集められ、
ドル買い阻止のプラザ合意声明を手渡さられ、翌日からのドル売り協力を求められた(ドル円240円)。殺人ではなく文書でドル売りを求められた。
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さて、ドル買いで暴利をむさぼった財閥が出たという当時の為替市場はどのようなものであったのだろうか。ドル買いを批判され暗殺事件まで起きた戦前の為替市場の介入は日銀ではなく「横浜正金銀行」(後の東京銀行)が行った。
ドル買いについては三井を代表とする財閥銀行が狂奔し日本の再建金本位制を崩壊させ円価を下落させることによって巨利を博したとする認識が通説化している。しかし巨利を博したはずの三井銀行が1931年下期決算では大幅な欠損を計上し、対照的にドル買い筋に対しドルを売り応じて巨額の損失を被ったはずの横浜正金銀行が例年と同じ利益を実現していた。
1930年1月11日に金本位制が再建されたがおよそ2年後の1931年12月13日にその機能を停止した。金輸出再禁止論は金解禁後すぐ台頭し円の先行きに対する不安が増大した為、ドル相場は金輸出点を下回る49ドル1/16(@100円)という異例の状況が生まれ 正貨流出が生まれ対外的にも日本の金本位維持能力に対する疑惑が生まれていった。したがって 1930年7月より横浜正金による外国為替の「統制売」が始められた。「統制売」とは政府日銀による正貨現送の承認を後楯としながら外為専門銀行の横浜正金が買需要に売り応じることである。
しかしロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐり政局不安が生じたり、イギリスが金本位制から離脱したことによりさらにドルはさらに買われた。売り応じるということは正貨(金)が流出するということである。 「統制売」は横浜正金のドル売り持ちを急増させた。またドル資金の調達を急がせた。
政府は金本位制を維持する道義的説得と円の高金利政策を進めた。維持する与党(民政党)と
金輸出再禁止を主張する野党(政友会)との論争にもなった。
政府(民政党)日銀、横浜正金連合軍と政友会、ドル買い銀行連合軍との対立は次第に先鋭化した。ついに「統制売」は敗れ実需輸入のみに限り、他には売り応じないこととなった。無制限の「統制売」から一転為替管理となった。さらに受け渡し未了のドル為替は期限内に解け合いの申し込みのないものは絶対に解け合いに応じないとした。よってドル買い連合軍は円資金調達のためドル売りを行い48ドル台に低落していた円相場は49ドル3/8へ戻した。こうしたせめぎあいの中政変が起こり 犬養政友党内閣が大蔵大臣に高橋是清を起用、金輸出再禁止を実施した。政府民政党横浜正金連合軍は政友会、普通銀行ドル買い連合軍に破れもろくも崩壊した。
ドルの買い手は三井財閥を始めとする住友、三菱銀行と言われたが、実際、半分はナショナルシティー銀行であった。当時の大蔵省国庫課長青木一男は「在英資金凍結の対策としてのドル買い需要と早晩わが国も金輸出再禁止のやむなきに至るであろうと思う人々があらゆる機会を通じてドルを買っておこうと考えるのは経済的常識であり、それを愛国心、道義的心で阻止するのは無理である。」と冷静に判断している。またこの青木氏は正金の損失を内閣が変わってもロシア預金の消滅時効による益で補填するなど責任を全うした。昨今の公的資金導入や予定利率で国民総動員法まがいのことをする官僚と比べると責任感が違う。
「ドルの買い手については「市場統制売受渡月別及売先別表」という資料がある。
当時のドル買いの50.7%が外国銀行、国内金融機関は33.4%となっている。
順位は以下の通り
1.ナショナルシティー銀行(32.2%)、2、三井銀行(17.3%)、3、三井物産(14.8%) 以下
住友、香港上海、三菱、チャータード、朝鮮銀行、日端貿易、ハンデルス銀行、川崎第百銀行、野村證券、三井信託などとなっている。(第一、安田は為替業務を行っていなかった。)」」
当時の三井銀行 常務池田成彬や三井物産は批判されて事情を説明している。見越し買い(思惑的買い)ではなくやむを得ず送金する需要があったと。
収益的にはドル買い手に対し暗殺も行われるほどの殺伐とした世相に考慮し、その期の決算は有史以来の欠損としているがこれは、金利急騰での債券評価損やポンドの下落をあげている。しかし翌期からは収益が回復し続けているのはやはり収益操作であったといえよう。
逆に統制売りで損失を出すと見られた横浜正金銀行は例年通りの収益を出している。 ロシア帝国預金5800万円に消滅時効を適用したり、英国ポンド売りでの利益、また債券の価格下落は持値で引きなおした。
このように金解禁前後ではすさまじい為替市場での攻防があり、人の命を奪うほどにもなるほどの混乱に陥り軍部の台頭となる。
今と比べるともっと大きな世界史の事象で相場は揺らいでいた。「統制売」(現在の介入)も一時的には流れを止めることが出来るが大きな世界政治、経済史の流れでは微々たるものだ。 相場は結果でしかない。現在も相場を動かすのではなく、その原因を正すようにしてもらいたい。今で言えば、購買力平価が高すぎるのだ。すなわち国内物価が高いのだ。(公共事業のコストは民間の1.7-2倍と言う。高速道路、市営地下鉄が高いはずだ。)それを下げるまでは介入を休まず続けるべきだ。
また当時の銀行の決算も諸事情勘案の上 繰り延べや原価法が柔軟に取り入れられていた。
現在もそのようだ。
横浜正金銀行は「日本銀行ハ内国ヲ経理シテ正金銀行ハ海外ヲ経理シテ。。。」と松方蔵相は説いた。創設時からして海外の拠点のほうが多かった。もちろん海外への窓口横浜が本店であった。外銀の為替業務独占を阻止するためでもあった。
今なら 成田正金銀行か 成田正弗銀行と名づけられたであろう。
参考文献
「横浜正金銀行全史」 東洋経済新報社
「横浜正金銀行史」 坂本経済研究所
「横浜正金銀行」 土方晋 教育者
「両大戦間の横浜正金銀行」 日本経営史研究所
「横浜散歩」 山川出版社
「横浜 歴史の街角」 横浜開港資料館編 神奈川新聞社
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